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「神の国の現われ」

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2001年7月29日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ11章14〜28節より
牧師 吉田耕三

イエス様はいつも祈っておられた。そして祈りの中で強められていく姿を見て、「私達にも祈りを教えて下さい」と弟子達が願った事を先週学ばせて頂きました。イエス様は私達がどの様に祈ればよいのかを教えて下さったのです。それと共に大切な祈りの姿勢。“あつかましく祈る”事も学ばせて頂きました。さて今日は話が変わって“悪霊”についてイエス様が語られます。

神の分捕り品となる

「イエスは悪霊、それもおしの悪霊を追い出しておられた。悪霊が出て行くと、おしがものを言い始めたので、群集は驚いた。しかし彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」という者もいた。また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。」(14〜16節)

悪霊の力によって“おし”になっていた人がいました。普通おしの方は、耳が聞こえないので、話せないわけですが、この人の場合には悪霊によっておしになっていたと記されています。そこでイエス様はその人から悪霊を追い出しました。すると話せなかった人が突然話し出したのです。神様の業がそこに起こった訳です。奇跡が起きているのは間違いない事ですが、素直に(神様がやっているのだ)と思えなければ、何と言えばよいでしょうか?それで「悪霊の力で、それをしているのだ」と言ったのだと思います。

また他の人は、「天からのしるし」を求めたとあります。これは旧約の時代に、預言者エリヤが天から火を下だしてもらい、エリヤの信じる神こそが真の神である事を証明したように、イエス様にも同じような奇跡を見せてもらおうではないかという事です。一見彼等は求めているかに見えますが、実は疑っているのです。彼等は疑う心から、試す気持ちで言ったのです。さて、それに対してイエス様は

「しかし、イエスは、彼らの心を見抜いて言われた。「どんな国でも、内輪ものしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれのよって追い出すのですか。だからあなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。」(17〜19節)

もし悪霊のかしらが悪霊を追い出しているのならば、それは仲間割れをしている事になるのです。だからベルゼブルによって私がこれをしているのであれば、そんな悪魔の力なぞ大した事ではない。又ユダヤ教の中にも悪霊を追い出す人がいた様です。ですからイエス様が悪霊によって悪霊を追い出していると言うのなら、あの人達はどうなのですか?と問うている訳です。彼等自身があなた方の言っている事の矛盾を指摘していることになりますよ。と言っているのです。更にイエス様は

「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」(20節)

と語られます。『神の指』という言葉は出エジプト記に出てきます。モーセがエジプトから出てくる時に蛙やブヨを大量発生させたり、川の水を血に変えたり、疫病をおこしたりしました。しかし実はエジプトの呪法師達も同じ事をしたのです。モーセが杖を蛇に変えると呪法師も同じ事をするのですが、最終的にモーセの蛇が呪法達の蛇を飲みこんでしまいました。その他様々なの光景を見て遂に呪法師達が「これは神の指だ」と認めた訳です。これは「私達(呪法師)の力ではなく、もっと大いなる力が働いている」と告白したのです。

そしてイエス様は、「この事は神の指によるものであり、それは今ここに神の国が来ているということだ」と言ったのです。そしてその事の説明が続きます。

「強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その家は安全です。しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」(21〜23節)

最初の『強い人』とはサタンの事です。サタンが武装して自分の手下をつかんでいる。それに対して『もっと強いもの』これがイエス様の事です。いくらサタンが強いと言えども、イエス様はもっと強い。そしてイエス様はサタンの武装を全て解除して、分捕り物(私達)を勝ち取るというのです。サタンの手の下にあったものが、神の下に連れてこられる。のだと語っています。

『私の味方でない者』これは中立状態にある者の事です。しかしイエス様に対して“中立”という事は有り得ないのです。神の側に分捕られていなければ、あなたはまだ悪の支配の中に置かれているのだから、本当の意味で神の勝利はなされていない。「どちらにもつかない。中立の状態です」という人は、気を付けなければならない。その人は悪霊に再び支配され、前よりももっとひどい状態になるかもしれない。ですからしっかりと神に勝ち取られていく事が必要ですと警告しているわけです。。

支配下におかれている私達

今日私達はここから何を学ばせて頂きく事が出来るでしょうか。まず第一に、悪霊と神の国の関係をしっかりと理解させて頂く事が必要ではないかと思います。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順な子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生れながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2章1〜3節)

第一に知るべき事は、私達は気づくと気がつかないとに関わらず、皆悪霊の影響の中にあると言うことです。そして私達がもし神の霊に従っていないなら、私達は悪霊の支配下にあるという事なのです。私達はまさか自分が悪霊の影響の下にあるなどとはは考えていないと思いますが、例えば私達は良い事と分かっていても中々出来ない。自分で(良くない事だから止めよう)と思っても、なかなかコントロール出来ない。(例えば、人を憎み始めると、辞めようと思っても辞められない。

自分が自分でコントロールできず、自分以外の何者かの奴隷になっていると言うことに気付き始めるのです。)知らない内に私達は知られざるものの支配下に置かれているのです。聖書はねたみ、憎しみ、嫉妬等は私達を悪しき者の支配下に置いてしまうと語っています。

「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放して下さるためでした。」(ヘブル2章14〜15節)

しかしイエス様はこの悪の力を打ち壊す為に来て下さったのです。ですから私達はもう怖気づく必要はないのです。私達はこの力をもっともっと存分に味わわせて頂く必要があると思います。しかし私達には見えざる誘惑者があるという事を忘れないで下さい。でなければ悪い思いがわき上がってくる時、私達は簡単にその虜になってしまうのですから。

「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。」(ヤコブ3章14〜15節)

もし私達の中にこの様な思いがあるならば、要注意です。悪魔は私達を簡単に支配する事が出来ます。しかし同時に神の国は既に来ている事も知って下さい。しかし、神の国が実際に来ている割には、神様の力が弱いな。私は神様の力を味わわせてもらっていないなと思う方は次の箇所を見て下さい。

「イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」(マルコ6章4〜6節)

イエス様は自分の故郷に帰られた時に、他の場所で行われた驚くべき御業をあまり行う事が出来ませんでした。その理由は“不信仰”です。人々は「あの大工のヨセフの息子ではないか」と考え神の力を受けとめられなかったのです。この不信仰な心、疑う心が神の力を失わせるのです。神様の力がないのではありません。神の力はもう来ているのに、私達の不信仰がこの御業、神の力の現れを止めてしまっている事を覚えたいのです。

「神様の国はもう来ている。だから主よこの業を成して下さい。」丁度このおしの人が悪霊から解放されて、話せる様になったように、私達も様々な縛りから解放されることが出来るのです。もし私達が信仰に立って歩むなら、私達も解放されるのです。しかしクリスチャンは真理によって自由にされていますが、また罪を犯す自由も持っているのです。と同時に罪を遠ざける自由もあるのです。イエス様を迎え入れていなければ、この罪を打ち勝つ力を持つ事は出来ません。罪を犯す自由は、クリスチャンもクリスチャンでない人も持っています。しかし罪に打ち勝つ自由はイエス様をお迎えしなければ、中々持てないのです。問題は私達が信仰を持ち、受け取るか否かです。信じて立つならば私達はもっと神の現われを見る事が出来るのです。

私達はともすると、立場を明確にするよりも、中立でいたいなどと考えます。しかし聖書は、あなたはいつまでも中途半端にするのではなく、本当に神の霊に満たされなさい。具体的に言いますと、あなた方自身を神様に委ねなさいと語っています。中途半端ではなく、全面的に神様に明渡すこと。自分の思いを何処までも(これだけは…)と必死に掴んでいるその手を離して、「あなたの御旨にお捧げします」と祈るということです。その時に神の霊が満ち、まさしく本当に神の僕となる力が与えられ、出来ないことが出来るようにされ始め、神の栄光を見ることができるようになるのです。神に分捕られた者として、「神の御心がなりますように」と心から祈りを捧げていく者とされたいものです。

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