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「永遠を与える神の愛」

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2004年8月8日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ3章16節より
牧師 吉田耕三

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節)

これは今月の暗唱聖句でもあります。聖書の中の聖書と言われている部分です。もし私達が聖書を全部失ってしまったとしても、この箇所さえあれば聖書が言わんとしていることを忘れないでいることが出来る。この箇所はあまりにも有名ですの長く教会に来ている方は「またか。」という印象を持つかもしれません。私達は知っていると思っても、そこから生き生きとした命を頂いていないのであれば「知っていない。」と言った方が正しいかもしれません。

「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩篇119篇130節)

神様の光が差込んで来る時に新しい意味、新しい力、新しい喜び、新しい真理に気付くことが出来るのです。是非今日もそんな恵みにあずかって頂きたいと思います。

神は世を愛された

「世」とは、キリストに逆らい十字架につけた「世の中」をも含みます。キリストが来ても誰も受け入れようとはしなかった。皆さんが招かれたのに、行ってみると全く受け入れられないほど無視され馬鹿にされたらどうでしょうか。キリストはそうされたのです。それでもキリストは『世を愛された』。この中に私達も含まれています。神様は私達を愛している。今日第1に受け取って頂きたい真理は「神様はあなたを本当に愛された。」

私達はなかなか「愛」と言う言葉を口にするのは慣れないですね。私達は愛をなかなか信じることが出来ない。その典型が神の愛ではないかと思うのです。日本語ですと分かりずらいかもしれませんが、この箇所は「だからひとり子を与えた」という文章です。神の愛の現われとしてひとり子を与えた。私達がどれだけ人を愛しているかは、どれだけの犠牲を払うかによって調べることが出来るでしょう。神にとって「ひとり子」よりも大切なものは何もないのです。そのひとり子をお与えになった。それは神は愛だからだというのです。

「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(第1ヨハネ4章8節)

皆さんの神様のイメージはどのようなものでしょうか。実は私達は、育った環境やどんなことを言われかにより神様に対する間違ったイメージが擦りこまれてしまっている。ある人は「神様は意地悪い」、ある人は「神様はなかなか答えてくれない方」、ある人は「神様は怖い方」、ある人は「神様は本当に優しくて親切で何でも受けとめて下さる方」と人によりイメージが違うのですが、神様は同じなのです。同じなのに人によってイメージが随分と違っている。「あなたの神様はどんな方ですか。」と聞かれた時に「私の神様は”愛”です。」と答えられるようになって頂きたいと思います。神様がどういうお方であるかが分かれば、私達の受け取る姿勢が全く変わってきます。

神様を愛だと受け取っているならば、1つ1つの事柄を愛の故として受け取ることが出来ます。しかし神様を愛だと受け取らなければ、嫌味とか意地悪としてしか考えられないでしょう。私達が通ってきた環境や経験などにより神様に対する違うイメージを持ってしまっている。私達は悪いイメージを取り去り、正しいイメージを持たせて頂くことが大事なのです。

皆さんは『神は愛です。』と聞いていると思うのです、知っていたと思うのです。そのことを本当に信じていますか。実はその反対の考え方が埋め込まれていることが多い。人間はサタンの化身である蛇の誘惑により罪を犯すようになったことが創世記に記されています。ここに私達が神様に対してどういうイメージを持つようになるかの1つの考え方が記されています。

「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3章5節)

アダムとエバはエデンの園にある全ての木の実は食べて良いとされていましたが、善悪の木の実だけは食べてはならないと決められていました。そのことを悪魔が囁くのです。「なぜ食べてはいけないと言われるか分かるか。神は優しく親切ではない。意地悪でケチくさいのだ。だからお前達が善悪を持つことを嫌がっているのだ。だから食べてはならないと言うのだ。」

悪魔は神様は愛ではないと語りかけるのです。悪魔はこの語りかけをアダムとエバだけではなく私達全てに語りかけていることを知って下さい。だから私達は「神は愛ではない。」と思えてしまうのです。私達にも嫌なことや困ったことがあるでしょう。すると「神は愛ではない。」と思ってしまう訳です。

昔の人は「かわいい子には旅をさせろ」「苦労は買ってでもしろ」これはいろいろな経験を通った人は悪いことの中にいろいろな意味があることを知っているのです。神様は本当の意味で私達に良いことをなさる方です。時には辛いことや悲しいことや苦しいことも敢えてゆるされることがあるのです。それは私達にとってその方が益となるからです。私達がそれを受け取ることが出来るかどうかは、神の愛を信じているかどうかです。

『神は愛です。』とはっきり聖書に書いてあります。これが神のご性質です。神様がなさることは全て愛に基づいているのです。でも私達は全部意地悪でされていると悪い観点で受け取ってしまいます。私達は随分と取り違えていないでしょうか。自分と同じレベルで神様を考えてしまう。神様は私達が考えていることとは全然違うのです。

厳しく怒る親と優しい親のどちらが愛情が深いかは分かりませんね。もしかしたら厳しく怒る方が本気になって子供のことを考えているかもしれません。私達は『神は愛』であるという原点から物事を考えて頂きたい。もちろん受け取り難いこともあると思います。その時には「神様が愛だと言われますが、私にはそれが分かりません。」と正直に申し上げていいと思います。でも『神は愛』であることは動かさないで頂きたい。そして神の愛の現われはひとり子を十字架につけたことです。聖書には

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15章13節)

神様はひとり子を私達に与えられた。その痛み、苦しみがどんなものであったかと思います。ヨハネ3章16節は父なる神の愛が中心となって語られています。自分にとってかけがえのない愛する子供を見殺しにするのです。その苦しみをどんな気持ちで見ていたのか。でも十字架の死がなければ私達の罪の赦しがなかったのです。そうして私達に命を与えて下さった。このことの意味を深く考えてみましょう。次にこう書かれています。

永遠のいのちを持つため

『それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』1人でも滅びることは神の御心ではないのです。しかし人間は罪を犯すならば、結果の刈り取りをしなければなりません。人間には自由意思が与えられていますが、その刈り取りも当然しなければなりません。何かを行なうならばそのことの責任も取らなければならないのです。その責任を真剣に考えたならば恐ろしいことですね。遠い先のことであると思っていますから、私達はあまり真剣に考えていませんが、いつか必ず自分のしてきたことの裁きを受けなければならない。

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」(ヘブル9章27節)

もし自分に心当りがない時には問題はないでしょう。たとえば泥棒をして捕まるかもしれない。後1年で時効になるけれども捕まる可能性があれば怖くて震え上がるのではないかと思います。私達はみなそういう心当りを持っているのではないか。しかし聖書はそのような滅びから私達を救うために、神はひとり子を世に与えた。この永遠とは時間の長さだけではなく、質的なこれから来る神様の祝福に満ちた世界に生きることが出来るようになることも含んでいます。

自分がそうなれると理解したならば、このことに対する現実はどんなに大きな希望やリラックス、ほっとした思いを与えるのではないかと思うのです。神はそのために十字架に掛からなければならかった。そうでなければ人の罪を赦すことは出来なかったからです。キリストは最後までこの苦しみを受け切って下さった。そしてその赦しを成し遂げて下さった。私達はこのことをもっと深く真剣に受けとめていくことが出来たならと思います。

「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8章31〜31節)

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8章37節)

もし私達がこのことを本当に受け取るならば、私達の恐れは消え去っていくことでしょう。「どんなものも私を裁くことはない。私は滅びることはない。神様が私の味方である。」これらが積極的に生きる原動力となっていくことでしょう。今日このことを真剣に受けとめていく必要があるのではないかと思います。

友人であったジムとトムの話しは前に話したことがあります。彼等の乗った船が座礁し沈み始めます。救命艇が2度来ましたが、3度目が最後になります。ここに乗る人を決めるためにくじを引きました。当たった人は救命艇に乗り、外れた人は沈む船に残らなければならない。ジムはくじに当たり、トムは外れました。その瞬間トムは「この船と共に沈まなければならない。死んだら自分はどうなるのであろうか。」彼は期待出来るような生活はしてこなかった。本当に死が恐ろしかったと言っています。その時にジムを見ると、とても穏やかな顔をしていた。穏やかだけでなく輝いていた。

「死んだら、永遠の裁きを受けるのか」と私(トム)はひとりごとを言いました。彼(ジム)の顔は平安に覆われていました。しかも不思議な光に包まれていた。私は彼が微笑んでいるのは当たり前だ。彼は救命艇に乗り助かるくじに当たったのであろうと、苦々く考えました。やがて一切の運命を決める3度目の救命艇が近づいて来ました。幸運のくじを引いた連中は次々と船に乗りこみました。ジムの番が来ました。しかし彼は自分が乗る代わりに私を前に押し出したのです。「トム、僕の代わりに君が救命艇に乗れ。そして天国で僕に会うのだ。いいな。君はこのままでは大変なことになる。僕は大丈夫だから。」私はそうさせまいとしましたが、前方に押し出されてしまい、急いで乗ろうとする男が私を押し出した。ジムは私が断るであろうと思って自分の計画を前もって明かさなかったのです。

数秒後私は救命艇に乗っていました。救命艇が船を離れるか離れないかのうちにジムの乗った船は沈んでいきました。かけがえのない友を乗せたまま。彼はイエス様の御元に行ったのです。彼は身代わりとなって死んだのです。この私の身代わりとなって。私は無事岸に着きました。やがて私は懸命になって救いの道を尋ねましたが、しかしどこから手をつけていいのか分かりません。いつも目の前には平和な微笑を浮かべ沈んでいく船と運命を共にしたジムの姿がちらついて離れないのです。道を歩いている時も、ベッドに寝ている時もそうでした。初めのうちはキリストのことよりもジムのことを多く考えていました。そのうちに聖書を手に入れようと考えました。ジムは日頃よく聖書を読んでいましたし、彼が聖書に深い愛着を持っていたのを知っていたからです。

まず新約聖書から読み始めました。どのようにしたら救われるかが分かるまで読み通そうとしました。しかし最初のうちは何がなにやらさっぱり分かりません。私は失望しかけて何度も閉じかけましたが、「天国で僕に会ってくれ。」と言ったジムの言葉に励まされ、暇さえあれば聖書を読みまくりました。遂に私は2人の強盗の話と、主イエスがその中の1人をお救いになったところまで読み進みました。その中でここに俺と同じくらい悪い人間がいると思いました。そしてそのままそこにひざまずいたまま、ひれ伏して「主よ。私はこの強盗のようにと悪い人間です。あなたが彼をお救いになったように、私もお救い下さい。」と祈りました。私の聖書はひざまずいた所に開いたままになっていました。こう祈ってから目を開くと『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』というイエス様の言葉が私の目を覆いました。この言葉を祈りの答えとして受け取り、救いの確証を握ったのです。

神様は本当にあなたを愛されている。だからあなたのためにひとり子のキリストをこの世に送り、最後の最後まで苦しんで死んでいくのを見届けた。それにより私達が負うべき全ての罪が赦された。私達はこの愛を本当に受け取っているかどうかをもう一度自分に問うて頂きたいと思います。『神は愛』だと宣言されています。でも私達は自分の経験や考え、過去に擦りこまれた考え方により「神は愛ではない」という考え方になっていないでしょうか。私達が神が愛であるということに心が向き始めた時に、全ての事柄は動き始めるのです。全てに神様の意味と目的があったことを教えられるのです。

私達に必要なのは、この神様に焦点を当てることです。神様は同じなのです。私達が勝手に自分の思いこみや経験で、神様を間違って思いこんでいる。ですからこれを取り去って『神は愛』であることを原点に考えるようになって頂きたい。神は世を愛された。そしてキリストを与えられた。それにより私達が滅びから免れて豊かな生き生きとした命に生きられるのです。誰でもです。方法はキリストを自分の罪のための救い主、人生の主として迎えることです。是非私達もこの恵みの中に共に歩んでいく者とされていきたいと思います。

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