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「見えない者が見えるように」

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2005年6月12日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ9章35節〜41節より
牧師 吉田耕三

信仰とは目に見えないものです。でも信仰は生きて働く現実的な力を持っているように思います。そのためには、私達が御言葉を積極的に捉えて自分のものとしていくことが非常に重要であると思います。
前回、前々回と学んだ、生まれつきの盲人が、弁が立ち頭が良く、聖書をよく知っているパリサイ人達と1対1で問答をした。それに対してパリサイ人は、

「彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。」(ヨハネ9章34節)

「お前は生意気だ」と追い出した。それだけならばいいのですが、これは除名です。ところが、その時にどういうことが起きたのか。

誰が何と言おうとも

「イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」(35節)

イエス様は彼が追い出されたことを聞いて彼の前に立った。彼自身が神様の力を体験した。生まれつき見えなかった自分が今見えている。人が何と言おうがこの事実は変えられない。深い喜びと感謝があったでしょう。それはパリサイ人達が攻め込んで来たとしても「私はこの神様を信じる」という思いを徐々に育てていったと思います。最初はイエス様のことを「イエスという方が」と言い、問答の内に「この方は神から遣わされた」と言い、ついには

「その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」(36節)

との告白にまで導かれた。彼は盲目でしたからイエスを見たことがないのです。だからイエス様が言っていることは、あまりよく分からなかった。ですから『私がその方を信じることができますように。』と言ったわけです。

「イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。」(37〜38節)

「やっぱりこの人が」と彼は思ったかもしれません。この方を信ずる時に、神を礼拝する心が与えられていく。イエス様はそこで言います。

「そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(39節)

イエス様がこの世に来たのは失われた人を探して救うためというのがルカ19章10節にありますが、ここは全く反対です。これはイエス様は直接裁くために来たのではないが、イエス様に対してどういう態度を取るかの結果として、裁きが起こってしまう。イエス・キリストに対して、心を開き信じるなら、その人の内には生き生きとした永遠の命の水が湧き出るようになるでしょう。このお方を拒否した者は、闇が留まり神の恵みを知ることがなくなってしまう。私達のイエス様への態度が、結果として裁きとなってしまう。それを聞いていたパリサイ人は、

「パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」(40節)

スパイとしてイエス様の側にいたのか、あるいは少しイエス様に心惹かれていたのか分かりません。彼らが「私たちも盲目なのですか」と聞いた。この表現は「見える私達は盲目ではないでしょう。」と言わんとしているのです。

「イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(41節)

彼らは「まさか私達が目が見えないというのではないでしょう。私達はアブラハムの子孫ですし、聖書のことも他の人よりは遥かに進んでいます。あなたの言葉だって少しは受け入れています。」という気持ちもあったかもしれません。それに対してイエス様は「『私には見えません。私には分からないのです。』ともし言い得たなら、あなた方は祝福の中にある、恵みの中にある。でもあなた方は分かっているというから問題なのだ。」ということです。私達は「主よ。私はまだ分かっていません。」と絶えずへりくだる必要があります。

「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(第1コリント8章2節)

私達は2つのことを心に留めたいと思います。まず第1は盲人の彼が除名された後にイエス様が彼に近づき、「あなたは人の子を信じますか」と迫り、もう1度彼の信仰を明確にした。私達はどうでしょうか。他の人が反対しようとも「私はこの主を信じます。」という信仰に立たせて頂くことが必要です。

先日宮城県と岩手県の境の藤沢町という所に行きキリスタン殉教の碑を見てきました。ある方が木の伐採をしていたら洞窟が見つかった。そこにはミサをする場所が作ってあった。人目を忍び信仰を守り通してきた、隠れキリシタンと聞くと弱い人と思っていましたが、そうではありません。反対されても彼らは自分の信仰を守ろうとしたのです。

車で行っても大変な所場所です。そこを歩いて行って礼拝する。背筋を伸ばされる気がしました。350年前ここで命をかけた信仰の戦いがなされていた。結論から言えば「踏絵」を踏んでも告白すればイエス様は赦して下さるでしょう。でもイエス様を裏切りたくないとそれを拒み300名以上の人が殉教していったのです。この盲人のように私達も自らの信仰をもう1度奮い立たせて頂くべきではないかなと思います。

御言葉から悟る

「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」(イザヤ26章3節)

神様は”力の強い者””信仰の強い者””能力のある者””知識のある者”を守るとは言っていないのです。「主よ。あなたに従っていきたいのです。生涯あなたと共に歩ませて頂きたいのです。」というものを主は守られる。具体的には御言葉に対してどう接するかにヒントがあるように思います。

「ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。」(マタイ13章18〜19節)

私達が御言葉を聞きます。でもただ聞いた、ただ読んだで満足してはいけないのです。読んだ御言葉を自分自身の中に受け取らせて頂くこと。知っているだけでは十分ではないということです。次は

「また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」(マタイ13章20〜21節)

御言葉を聞いて「いいことだ。なるほど。素敵だ。」と喜ぶ。しかし御言葉の中にはちょっときついものもあります。『あなたの敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。』とか『成すべき良いことを知りながら、それを行わないのはあなたがたの罪です。』こんなことを言われたら何も出来ないと御言葉を捨ててしまう。そうではなく「私は御言葉を守れない者です。本当に私は神様から遠い者です。こんな私を憐れんで下さい。」と御言葉を捨ててしまうのではなく、御言葉によって生きるようにさせて頂こうという志のある者は、試練があってもそれを乗り越えていくことが出来るでしょう。そしてさらに根が出来ていく。

「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」(マタイ13章22節)

神様の言葉も聞くのですが、色々なことに気が散り、神様の御言葉よりもそちらを優先してしまう人は、御言葉の根が育っていかないのです。そのため力強い命が出てこないということです。

「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」(マタイ13章31〜32節)

からし種は当時知られていた種の中で一番小さなものでした。でもそれは育つと何メートルにもなって、鳥が巣を作る木となる。私達の信仰も健全に育つなら大きなものとなっていくのです。最初は小さくても段々に育っていく。

「また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」(マルコ4章26〜29節)

御言葉から悟ることは大切です。あるいは「出来ない」と思う時に「主よ。私には出来ませんから出来るようにして下さい。」「主よ。私はこちらの方が大事に思えてしまっているのです。こんな私を憐れんで下さい。」と祈りましょう。神様はそんな私達を1歩づつ神を見上げて歩む信仰に育てて下さる。

盲目の彼を、人が何と言おうと「私は信じます。」という信仰に育てて下さった。これが主の期待する信仰です。その信仰に1歩1歩導かれたいものです。それは御言葉に教えられ悟る。御言葉に従っていく。出来る出来ないとか力があるないの問題ではありません。「そうさせて下さいと祈ろう。」と心を定めるかどうかです。そうするならば神様はそのようにさせて下さるのです。

さて、39節からもう1つのポイントを見ていきたいのですが、

「そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(39節)

彼は今や見えるようになった。それは肉眼で見えるようになっただけではなく、「この方こそ、まことの主だ。」という霊的な目が開かれたのです。私達も霊的な目を開いて頂く必要があります。パリサイ人達への忠告の「あなた方は見えるといっているから問題なのだ。」これが霊的な目を開く妨げとなります。「もう分かった」と思ったら大いなる危険の中にあると知って下さい。恐らく「分かった」と思うと、しばらく霊的な成長がストップすると思います。聖書は義に飢え渇くものは幸いですといいました。分かってないと言っている時の方が霊的には最高なのです。ラオデキヤ教会に宛てられた警告を見てみたいと思います。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示3章17〜20節)

ラオデキヤ教会は形としては立派に信仰を守り教会としても整っていた。でも真実な心において、生き生きとした愛に燃える教会ではなくなっていた。それに対して熱心に悔い改めなさいと迫られている。私達の信仰もある時は燃え上がって「主のために何でもします。」と言ったかと思うと、ある時は萎えてしまって「どうでもいい」という思いになってしまう。「主よ。私には愛がありません。あなたに対して燃え上るものを持っていません。惨めです。哀れです。貧しいです。目が見えないのです。」と告白していくことが必要です。主は私達が熱心になって悔い改める時に戸を叩いて下さる。その戸が開かれて私達の内に神様の命が入ってくるのです。私達は神様と共に歩んでいなければ愛も憐れみも熱心もないのです。皆罪人です。ただキリストにより新しくされ、御霊に満たされていく時に私達は神様の愛を頂いて人にも与えることが出来るかもしれません。いつでも新しくされていなければならないのです。それには私は分からないという所に立つ必要がある。

「主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。』と言っている。それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。−主の御告げ。−」(エゼキエル37章1〜14節)

ひどく干からびた骨を認めた時にそこから大きなリバイバルが起こることが預言されているのです。私達も自分がどんなに惨めで乾ききった者であるのかを認めてへりくだる時に、神様は私達を満たして下さるのです。へりくだって神様の恵みを頂くこの盲人の道に歩んでいきたいと思います。

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