私達が魅力的になるためには、人の徳を養うような人に変わっていくことが必要です。しかし同時に、それはとても出来ないこと、無理にがんばって続けようとすれば、自分自身が大きなストレスをため込むことになる、という現実をも覚えるのです。では、どうしたらよいのでしょうか。聖書には、次のようにかかれています。
「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(第Iペテロ4:10)
私達は、“神様から頂いた恵み( = 魅力)の管理者”だ、というのです。言い換えれば、私達には神から与えられた魅力があるということです。あなたは、このことを知っておられるでしょうか。私達は、自分の中の良きものに案外気付いていません。私達の多くはマイナス思考を持っていますから、人と比較しては、自分には良いところなどない、と思ってしまいがちです。そうすると劣等感や妬みなどを持ってしまい、素直に人の良いところを認められなくなります。
自分の魅力を認められるなら、人の魅力も認められます。ただし、ここで気を付けなければならないのは、“恵みの管理者”とは、所有者ではないということです。自分のものと思うところには、思い上がりや高ぶりがでてきます。しかし、それは神様から与えられたものであって、私達はその管理者にすぎません。そして、管理者には、それを正しく用いる責任があるのです。与えられた賜物を生かして用いれば用いるほど更に増し加えられる、けれどももしそれを隠して用いなければ、あるはずのものさえも失われてしまう、とも聖書には書かれています。自分の内に与えられている良きもの(魅力)を認め、正しく受けとめるなら、他の人の魅力をも素直に認められるようになり、その結果、私達は、人の魅力を引き出すものとなっていけるのです。
しかしながら、ここで正直に自分をみるならば、自分自身を受けとめられない、自分で自分を許せないという思いが、心の奥深くにあることにも気付きます。多くの場合、私達はそれにフタをして見ないようにしているのですが、そこが解決されない限り、どうしても自分を受け入れることができません。しかし、こんな私達を神様はそのまま受け入れて下さっているのです。自分でも自分を許せないような私達の醜さ・汚さ、また取り返しのつかないような罪さえも、イエス・キリストの十字架によって、神様はすでに赦して下さった、と聖書は語ります。私達がこのことを受け取る時、神様は、十字架によって私たちの罪・汚れをすべて取り除き、私たち自身の持ち味・魅力を生かす人生へと歩ませてくださるのです。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)
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