私達がコンプレックスを持つに至ったにはそれなりの理由があり、深く傷ついた経験があるのです。ですからそこにも正しい対処が為されなければなりません。私自身、以前は劣等感の固まりという生き方をしてきました。そのきっかけとなったのは、小学校に入学したばかりの時、慣れない集団生活の中で失敗をして友達に何度もひどくからかわれたという経験でした。もう自分には生きる価値がないと思えるほど、世界中で一番惨めでダメな人間だと思ってしまいました。
一つイヤだと思うと、自分の何もかも全部がイヤになります。ある時は自分の一挙手一投足を、これはおかしくないだろうかと過剰に意識したこともありました。こんな時に自分の中から良いものがでてくるわけがありません。人が何でもない話をしていても、何か自分が批判されバカにされているように感じて、1人心を痛めてしまうのです。友達が欲しいと思っているにも関わらず人の中に入っていけない…自分は人から嫌われると思いこんでいたのです。
コンプレックスを持っているとき、このように私達はなぜか不自由なおかしな生き方をしてしまいます。私達がそこから解放されるためには、自分の心にあるコンプレックスをごまかしたり逃げたりするのではなく、それを正面からみていくことが必要です。なぜなら、それをいやし赦して下さるお方がおられるからです。
「しかし、彼(イエス・キリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)
イエス・キリストが十字架にかかったのは、私達の罪を赦し、また私達の傷をいやすためであったと聖書は語ります。あなたの心にも、思い出すだけで傷つくような場面があり、それ故にコンプレックスに陥ってしまっていることがあるかもしれません。もしそうなら、それをそのままキリストのもとに持っていって頂きたいのです。「私はこの事で本当に傷つきました」「本当に悲しかったです」「辛かったです」。その時、キリストがあなたの傷をいやし、心に平安を下さるでしょう。あるいはまた、様々なことが自分の罪のゆえに起きたということもあるでしょう。もう取り返しがつかない・・・。しかし、だからこそ、その罪を赦しきよめるためにキリストが十字架で死んで下さったのです。
私たちは自分のプライドが邪魔をして、自分の惨めな姿をそのまま言うことができません。でも神様の前では立派に見せる必要はないのです。惨めで傷ついた姿をイエス様に正直に申しあげる時、イエス様はその心の傷にふれて下さり、いやし、解放してくださるのです。その時、自分のコンプレックスであったことさえも、平気で受け止めることが出来るようになるばかりか、それまでの辛い出来事のすべてが神様の御手の中で、良きことに変えらていくのを体験なさることでしょう。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として下さることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
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